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「連想の生態系」について

本についての新しい仕事「ブックアソシエータ」(1)

事始的ブレインストーミング

・「道具の生態系」からの発展→「連想の生態系」。

・読書はじめ、勉強や情報収集によって得て、頭に蓄積されてきた言葉は、活用されなければ底に埋もれていくが、忘れ去られるわけではない。機会があれば浮かび上がる。

・文章を書く、会話をする、等々、「浮かび上がる機会」はいくつもある。

・「連想」をその一つと捉えるか、それら一般的な機会と分けるかはさておく。

・「連想」は、日常的な・一般的な文脈に限定されない仕方で、個人の頭の中で、言葉と言葉をリンクさせる作用である。

・リンクの根拠の、基底的な部分は、ごく個人的なものである。「自分の頭が、ある言葉と別の言葉をつなげた」という以上に根本的な理由はない。連想が常識や通念に従っていたとして、しかしそれは自分の頭が常識や通念を採用しているからに過ぎない。

・その基底的根拠は、個人自身が説明できる場合と、できない場合とがある。もちろん「説明することで根拠が形を得る」場合もある。「説明として言葉にすることで根拠が形を変える」場合もある。

・重要なのは、一見では明確な説明がつかない連想の方である。これは、「その人自身が知らない自分」を表しているからだ。

・「連想の生態系」とは、個人的な文脈によって、個人の頭の中で独特に、言葉同士が息づき、活性化されて形成されるものである。

・「連想の生態系」と、本あるいは読書との関係はどういうものか?

・人が言葉を扱う場面は読書に限られないが、一人で、黙々と、言葉と相対する好適な機会は読書である。

・文字入力をせず、一人で思考する場合も同じくカウントできるが、連想の契機は言葉の入力がある場合に、圧倒的に多い。確率の問題だけでなく、ある言葉が未知の文脈で、つまり自分が元々その言葉に付した文脈とは別のそれで入力(活性化)されることも、連想の格好の契機である。

・「連想の生態系」の効果、期待されるものは何か?

・それは自分の思考に対する信頼である。自分が発する言葉に対する信頼である。言葉が自分のものになる、という感覚である。

・「こう言っておけば無難だ」「相手はこう言って欲しいだろう」といった、他律的な言葉の扱い方は、上記の信頼を毀損する。相手のことを考え、相手を思いやる姿勢にも見えるが、自分の言葉でない言葉を相手に発することは、「自分のことを個人的に捉えてくれるな」と主張することに等しい。仕事の場面ではそれはありふれているかもしれない、しかし、個性の見えない、互いに個性を晒さない関係は、それが理想とされる仕事があることを否定しないが、それだけのものに留まる。

・この思考は「言葉を道具として使う」問題につながる。ある目的があり、その目的の迅速な達成のために、無駄を排除して、効率的な言葉のやりとりをする。これはこれで、筋が通る。

「連想の生態系」の養成、育成の目的は、これとは真逆の関係にある。すなわち、「言葉を道具として使わない」ことを前提とする。言葉は確固とした意味を持つなどとは幻想であり、発したそばから変化し、発する者も、それを聞く(読む)者も変化させる。言葉そのものは無機物かもしれないが、人が扱う時点で言葉は有機物となる、つまり、飛躍して言えば「自分がいなくても世界はある」のではなく「世界は自分の中にある」という世界観の一種である。

・人は変化する生き物である。細胞然り、成長・老成然り。変化の本質は「未来の未知性」にある。物事がどう変わるか、それを完全に予測することは不可能であり、それを可能とみなす視界は曇りガラスに覆われ、見たくないものを意図的に隠蔽している。意志がまずあり、その意志を確実に伝えるために言葉があるとされるコミュニケーション観は、これに反した「未来の既知性」をその理想としている。

・意思疎通は確実にはいかない。すれ違いは必ずある。だからこそ他人を知ることは面白い。これは正しいが、この面白さはそれが「例外である」からこそという前提が隠れている。すれ違いばかりだと疲労し、事がうまく運ばず、予定が立たない。思い通りに進みすぎるのも退屈だから、という感覚は明らかに、「ある程度は(できればほとんどの場合は)思い通りになってほしい」という願望の表面的発露である。これは脳化社会においては必然の思考回路といえる。

「言葉の生態系」は、脳化社会の計画至上主義に生きる我々の地底で、静かに胎動するものである。革命の機を窺うといった大げさなものではない。生老病死・変化を免れない動物の一種という認識、身体は心得ているが脳は常に無視したがっている自然的事実、このいわば身体感覚を、脳的に、脳が認識できる形で再現したものとみることもできる。

・病気はいつやってくるかわからない。死は老衰だけではない、内的な身体異常だけでもない、交通事故や転倒も引き金になる。価値観もそれと同じ、自分が今まで信じてきたことが、ある出来事によって裏返ることもあり、誰かの一言で嘘が真にもなりうる。そういう可能性は、つねにある。

・人間という有機体が、自分(社会)のこととして扱うものは、その対象となることですべて有機物になる、という見方ができるかもしれない。これは意識が不可逆的な発光現象であることが根本で、もう少し下流でいえば、言葉の有機性となる。

「言葉の生態系」の成長、自律性の獲得(ひとりでに膨らんでいくイメージ)は、「自分自身の大きさ(偉大さ)」のイメージにつながるかもしれない。「自分は何にでもなれる」という子どもの感覚。「可能が可能であったころ」という夏目漱石の言葉。つまり、自分の中には自分が把握できないものがあり、その領域の広がりは計り知れず、新たな発見や発想として浮かび上がってきたものが氷山の一角に過ぎないという感覚。これは、自分自身の存在に対する興味の賦活ともいえる。

・ネット空間に浮かぶ膨大な情報、そこには自分ひとりが考えるようなことは全て含まれている、何か新しいことなど思いつけるはずもない。「歴史に名を残す」という言葉が若者を勉学に励ませた時代があったが、世界が広がった、世界中の細かな出来事が参照できるようになった現代ではその力を失ったように見える。

・欲しいものが何でも買える、自分で何か新しいものを作る必要もない、お金さえあれば問題がすべて解決する。生産技術の発達の末に行き着いた先進国の消費社会は、個人を受動的な立場に釘付けにする。最新の流行情報、商品比較サイトの値引き情報、多種メーカ製品のコストパフォーマンス的観点に基づいたレビュー、情報収集によって主体的に購買対象を選んでいるつもりの消費者は、ある意味では完全に受動的である。

自分は何者か。自分には何ができるか。この疑問は、自分を知りたいという欲求である。この疑問は解決されること、答えを得ることが望まれているが、一度出た答えの、その効力は永遠には続かない。これは疑問をもつこと自体が無駄であることを意味しない。その疑問を持ち続けることに意味があり、それが意識の活動である、ということ。生活の安定を目指し、安定を得て、ふと疑問がよぎり、また同じ模索を繰り返す。生涯抱え続ける必然の疑問を、忘れたり思い出したりすることは、それを意識し続けることが困難であり、苦痛であることを示しているように見える。だがおそらくこれは通念に過ぎない。社会が、システムが安定のために作り上げた(非明文化された)ルールかもしれない。

・言葉の変化を我が事として得心した者には、この必然を受け入れることが可能かもしれない。それを苦痛と思わず、興味深い現象として、仲の良い付き合いができるかもしれない。自分の言葉を信頼すること、自分の思考を信頼することは、ここにつながる。

では「ブックアソシエータ」とは、何か?